山陽線の築堤崩壊による列車脱線転覆事故の現場訪問

動画制作裏話
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後で動画で投稿するつもりですが、動画の脚本を書いていて、動画内では解説しきれない部分がでてきたので、こちらのブログで事故概要も含めて詳しく解説したいと思います。

山陽線の築堤崩壊による列車脱線転覆事故の概要

この事故は昭和13年(1938)6月15日に現在の岡山県赤磐市奥吉原で起こった事故です。崩壊し、線路が宙吊りになっていたところに上り列車が侵入して脱線、一部の客車が下り線を支障し、そこに下り列車が衝突しました。25人が死亡、108人が負傷しました。

事故現場付近の事情

山陽本線は前身の山陽鉄道という私鉄が作った路線でした。この鉄道会社の線路敷設の方針として有名なのが、「勾配は10‰以下に収める」というものです。これは勾配を1パーセント、言い換えると1mの高低差を超えるのに100m直線方向に進むことを意味し、緩い勾配となります。線路敷設当時の中上川彦次郎社長の命令によって、瀬野~八本松間と下関付近の例外を除いて全線がこの方針によって建設されました。このため岡山兵庫県境の船坂峠などでは急カーブを多用しているため、制限速度が制限される区間が多いのも特徴です。勾配が緩ければ、機関車一台の輸送力を上げることができ、とても画期的な施策ではありました。現に、今では山陽本線で輸送上のネックになるのは瀬野~八本松の間だけで、それ以外の区間は機関車一台で1300tを引っ張ることができます。しかし、急カーブが連続するということは最高速度が制限されるということであり、特急や急行などの速達列車にとっては所要時間の増加が問題となります。このため、山陽鉄道が買収されて、国鉄の路線となってからはあちこちの急カーブでカーブをより緩やかにする改良工事が行われていました。今回の事故現場では昭和13年の1月16日に改良工事の行われました。丘を削り、削った土砂で築堤を作って線路を移動させ、半径が500mのカーブに緩和されていました。

事故直前の状況

昭和13年は特に雨の多い年で、7月5日には阪神大水害が発生して、神戸から芦屋にかけての地区が大きな被害を受けています。6月14日から15日にかけても激しい雨が降り注いでいました。

6月14日下関駅では京都行の夜行の上り第110列車が出発しました。列車は鋼製車体を使った客車で組成されていました。これは1926年に山陽本線安芸中野~海田市間で起きた事故の影響から、鋼製客車の製造が進められていたためです。

この列車は途中宮島駅で和歌山県橋本高等小学校の児童71名と引率の先生3名が乗車し、22:30に発車しました。この修学旅行では6月11日に橋本を出発し、金刀比羅宮と宮島を参拝して、この第110列車で母校に帰るところでした。修学旅行の団体のため車内が混雑してきたので、途中の広島駅で機関車の直後に一両客車を増結することとしました。このとき木造の客車を増結しました。この増結車両に修学旅行の団体は移動します。

このあと、広島を出発し、豪雨の中岡山に到着します。日付が変わり岡山を出たときには30分ほどの遅れが出ていました。この時点、列車を牽く機関車はC5359号機、客車は13両で、重量は約450tでした。機関士は阿波一雄、機関助士は森常太。熊山駅を無事通過し、3:58~59ごろ、熊山駅から700m東方の見通しの悪い右カーブに差し掛かります。

当該のカーブでは工事の際、水抜き工事が不十分であったために、この時点で盛土の中が伏流水であふれ『円弧滑り』と呼ばれる現象が起こったと考えられます。盛土の中が水でいっぱいになり、土中の水によって土が滑ったと推定されます。

盛土が一部なくなったことで上り線の線路の半分から1/3が9mに渡って宙に浮くこととなりました。

事故発生昭和13年(1938)6月15日 午前3時58~午前4時

支えを失った進行方向左側の線路に列車が乗れば、あとは落ちるだけです。

現地の状況から列車は10mほどと推定される下の竹林の中に脱線転覆しました。機関車は半ば以上が土砂に埋まって上下が逆になり、1両目の木造車は原形がなくなって完全に破壊され、続く4両目までが「く」の字を二つ重ねたような格好になって横倒しとなりました。ガラスは全てわれていました。5両目の客車は4両目が転落した反動で竹林とは反対側の上り線の線路にはみ出して脱線。続く客車は下り線の上に留まりました。

しかし、事故発生1分もしないうちに下り列車がやって来ました。隣の和気駅を定時で発車した鳥羽発宇野行の第801列車です。C5345号(他の資料にはC5315号やC51とするものもあり)が牽引するこの列車が5両目の客車に衝突し、客車の右半分を切り裂きました。

事故直後。被害は一両目の木造客車が最もひどく、引率教師2名、児童18名が死亡し、無傷だったたったの1名を除くと、35名が重症、18名が負傷しました。犠牲者は1両目の20名に加えて、これに機関士の阿波一雄と機関助士は森常太の2名も死亡。そぎ落とされた5両目の車両から3名がなくなり、計25名が死亡、重傷者が43名、軽傷者が48名の大惨事になりました。

事故原因について

事故の経緯を前述したとおり、水抜き工事が不十分であったこと、そこに前日からの激しい豪雨のため、盛土が伏流水であふれ崩落しました。崩落を列車に知らせることはできず、列車が現場に侵入し脱線転覆します。このとき1両目が木造車両であったため、粉砕してこの車両から圧死が原因で多数の死者を出しました。(死者25名のうち20名が1両目、重傷者43名のうち35名が1両目、軽傷者48名のうち18名が1両目)

さらに脱線転覆後に対向の列車を止める措置を取るには時間がありません。そのために対向列車が衝突し、被害を大きくしました。

前述の1926年の山陽本線の事故を契機として、事故時点では国鉄の新造客車は全て鋼鉄車となっていましたが、国鉄に在籍している客車の過半数が木造でありました。木造客車がほぼ消えるにはその後も永い時間を要します。1947年に八高線の東飯能~高麗川間で起きた脱線転覆事故をきっかけに、60系客車の登場によってようやく木造客車が消えていくことになります。

またこの事故では、責任を問われて検事拘留処分を受けた保線区の職員がいました。ミスを犯したのは設計と施工を行った者であり、保線員の巡回にミスがあったとは思えませんが、これは1926年のから悪天候の線路の見回りが強化されたことにも拘らず、この事故を防止できなかったことも影響しているのではないかと、思われます。

事故後の補足

事故後、現場を管轄していた広島鉄道管理局が岡山と姫路の師団に救援を要請し、直ちに救助と復旧が行われ、当日の14:30分に運行再開となりました。

事故を受けた機関車C5359号はその後復帰し、広島や下関で活躍したのち、1949年に引退。

C5345号も修理後姫路・宮原機関区で働き、引退後に一度復帰し、大阪の交通科学館に展示された後、現在京都鉄道博物館にて展示されています。

事故後に天皇皇后両陛下から事故の遭難者に金一封が手渡されました。戦前の大事故では天皇からの金一封の下賜によって事故は一件落着となるのが通例です。このほか鉄道省内で1500人の職員から募金を募り遭難者に送られました。

その後現場に慰霊碑が立ったほか、現在の橋本小学校構内と橋本市の丸山公園に慰霊碑が建立されました。

また小学校では事故を重傷を負いながら生き延びたものの、事故が原因でのちのちさらに10名が亡くなっています。

事故現場のいま

熊山駅から上り列車に乗って進行方向左側の窓から外を眺めていると、竹林の中に一瞬だけ石碑が見えてきます。そこが事故現場で慰霊碑のあるところです。

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私は何度もこの区間は利用していたので何かここにあることは相当前から知っていました。鉄道事故の書籍を小学生の頃からよく読んでいたのでこの事故自体もざっと知っていました。でもこの事故と慰霊碑が自分の中で結び着いたのはつい数か月前のことです。車載動画を収録してるときで、あまり車載動画と内容と合わないかもしれませんが、近くを走るせっかくの機会だったので車載動画の収録中によることにしました。

近くの道は吉井川の土手の上を走り、山陽本線と並走する気持ちのよい道です。ちょっと和気よりがとても狭い所謂険道として知られていますが、バイクで走るならあまり苦ではないでしょう。

事故現場は今も竹林の中にあって、通過する列車を見上げる位置にあります。

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現場には今も花が供えられ、通過する列車を見送っています。

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現場には事故の説明板があり、事故のあったことを伝えています。負傷者は文献によって少し違うようです。

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この事故が忘れられないように…

参考文献

  • 鉄道重大事故の歴史   久保田博   グランプリ出版
  • 続・事故の鉄道史   佐々木冨泰・網谷りょういち   日本経済評論社
  • C53 機関車データベース デゴイチよく走る!   <http://d51498.com/db/C53>
  • 日本鉄道名所7山陰線 山陽線 予讃線   相賀徹夫   小学館

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