C56 135

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鉄道の保存車両紹介というのをやってみようと思います。今回取り上げるのは兵庫県加西市の播磨中央公園に保存されているC56形蒸気機関車の135号機です。

C56形蒸気機関車とは?

この機関車についてお話する前に、まずはC56形蒸気機関車とはどういう車両なのか、それを話していきましょうか。

C56形蒸気機関車は1935年に登場した小型軽量テンダー型の蒸気機関車です。タンク機関車のC12型に炭水車をつけた格好をしています。

C56やC12登場時の日本の鉄道は、ほぼ日本中に主要な路線網が完成していました。当時新しく開通した路線は需要が小さいローカル線が多く、幹線向けの大型な機関車や大規模な設備を投入するのが不経済な路線が多かったのです。また時代は昭和恐慌のころであり、国にも鉄道建設のための予算に余裕がなく、ローカル線の建設費を抑えるために、最高速度や通行する列車の重さに制限をつけた「簡易線」が多く建設されました。これに加えて、ローカル線向けに使ってきた明治時代の蒸気機関車が老朽化して代替の機関車が必要になっていました。

「簡易線」を走ることができ、軽量小型で経済的な機関車が必要とされていたのです。この要件を満たす機関車として、まず1932年に製造されたのがC12形蒸気機関車でした。しかしC12形はタンク機関車であり、積載できる石炭と水が少ないため、長距離の運転では給水・給炭が何度も必要になってきます。石炭と水の補給のための施設をいくつも線路脇に作るのは不経済です。そのため路線長の大きい簡易線ではC12と同性能で長距離を走れる機関車が必要となってきました。そこで1935年に製造が開始されたのがC56形蒸気機関車です。

C56とC12との違いは、テンダー車とタンク車という違いはありますが、除煙板とよばれる板がついたことくらいです。性能は同じです。ほかの機関車と比べたときのC56の特徴は、やはり切り欠きのある炭水車です。炭水車を切り欠くことで、後方の視界を確保し後進を簡単にしています。しかし、先頭に台車が一つその後に動輪が3つという軸配置のため、後進のときに不安定で脱線しやすいことから、バックで運転するよりも転車台で向きを変えることが多いようでした。

運用は簡易線を問わず全国で活躍しましたが、軽量小型な性能を買われて、戦時中にタイ・ビルマ間の泰緬鉄道に1号機から90号機までの90両が供出されました。このとき太平洋側にいたC56が優先的に南方へ送られたため、四国などからC56が消滅し、C56の分布が戦後日本海側や内陸部に偏ることになりました。戦後の活躍では、小海線での活躍が有名で、小柄な車格から「高原のポニー」とよばれました。小海線のほか、集煙装着とツララ切りを装備した大糸線での活躍、1953~1959年にかけてで広島~米子の快速「ちどり」の牽引した木次線の活躍や1972年に日南線にてお召列車の牽引に使われるなどしました。1974年に三江北線での活躍を最後に日本の鉄道からは引退しました。

国鉄の他には北海道の雄別鉄道にいた1001号機と、樺太にてソ連に接収され、消息不明となった4両。そして敗戦後にタイ・ビルマで1980年代まで活躍した仲間がいます。製造両数165両です。

C56 135の来歴

1938年に日立製作所笠戸工場で作られ、鹿児島県の出水機関区に配置されます。その後広島、戦時中に木次と移り、浜田、米子に所属します。このころ木次線・三江北線で活躍したと推測されます。1969年から宮崎に移り、1972年10月にはお召列車の予備機に選ばれました。その後吉松機関区に移り、ここで1974年に引退し、75年に国鉄から旧滝野町へ展示用に貸し出され、今に至ります。

保存車を見るとランボードやロッドに飾りの塗装が見られ、お召列車の予備機として選ばれた際に塗装されたものを復元しているのではないかと思われる。このほか前後共に蒸気暖房用のホースがあり、後進時の運用もあった可能性がある。一つの疑問点は、ジャンパ線の用途がわからないことである。前後に細いジャンパ線があるが私には用途不明である。

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