播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故と慰霊碑

事故・失敗と安全
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お久しぶりです。今回も事故慰霊碑の訪問の記事でございます。
事故名はWikipediaのものに倣っています。

事故現場と慰霊碑の場所

事故名から分かるように今回の事故が起こったのは播但線です。兵庫県の播磨地域の姫路駅と但馬地域の和田山駅を結ぶ路線です。福知山線や山陰本線などの京阪神と北近畿を結ぶ主要な他の路線と比べると幹線とは呼べない、輸送量や運行本数が少ない路線です。しかし一日3往復の京阪神~山陰の特急が走るローカル線としては存在感の大きな路線です。全線が単線ですが姫路~寺前が電化されており、この区間では1時間に2~3本程度の頻度で電車が運転されています。寺前から北は小さいトンネルが連続することで電化が難しく、2時間に1~2本のディーゼルカーが行き交うローカル線になっています。

事故現場および慰霊碑のあるのはこの播但線の長谷~生野です。この区間は播但線の寺前~和田山の非電化にあたります。事故のあった地点は播但線が市川に沿って長谷の集落から生野の街へ行く途中にあります。主要な道路はここで市川を避け生野峠や栃原隧道を抜けていくのとは対称的に播但線は市川に張り付いて進んでいきます。そしてこの場所は市川が屈曲しながら山を抜けていく箇所であり、姫路を出て最初のトンネル真名谷トンネルがここにあります。

真名谷トンネル和田山側
弔魂碑と上の写真の踏切

真名谷トンネルの和田山側近くの広場に今回の慰霊碑はあります。正確には弔魂碑です。
訪問したのが5月ということもあって碑の台座にはツツジが咲いていました。

事故概要

事故の概要については弔魂碑の記載が詳しいのでそのまま転載いたします。なお原文を一部改めたところがあります。

昭和34年4月6日未明この地において神崎郡の妙心寺参拝団
を迎えるべき臨客回第8630列車が脱線転覆し乗務中の
   豊岡機関区機関士 成田政夫 35才
   同   機関助士 尾形浩之 24才
の2名が殉職した
列車はC545号機が逆行で定数を牽引していたもので生野隧
道内での登坂にあたり乗務員は逆風が追い上げる猛煙と熱気の
中で懸命の投炭と操縦に力尽きて窒息し生野駅での通票授受も
ないまま逸走して惨事に至ったと推定される
ここに故人の25回忌を迎えその痛恨の死を悼みつつ二柱の霊
安からんことを祈念してこの碑を建立する
     昭和58年4月
                 有 志 一 同

この碑文を補足しつつこの事故の詳細を語って参りましょう。

この日播但線の溝口駅から団体客を乗せることになっていました。この時京都府右京区の妙心寺で50年ごとに行われる大法要があり、溝口でそのお客を乗せて運ぶ予定でした。

機関車はC545号機で7両の客車を牽いて和田山から生野峠を越えて溝口に向かっていました。播但線には途中の区間に生野峠という坂の急な難所があり、それに加えてその区間では断面の小さなトンネルがあるために蒸気機関車での運転が苦しかったのです。また通常は坂がきつい路線ではD51のようなパワーのある機関車がその区間を担当することが多いのです。しかしなぜかD51はこの路線で活躍せず、この頃はC54、C55やC57といった旅客向けの機関車が旅客貨物を問わずに活躍することになりました。

この日の牽引はC54形の5号機でしたが、このタイプの機関車は扱いに難のある機関車でした。1世代前のC51形という機関車を軽量化して軟弱な路線でも走れるように設計したのですが問題点がありました。軽量であるがゆえに車輪が空転をしやすい点、無理な軽量化でボイラーを支える台枠が脆弱である点です。そのためにたったの17両しか作られず、設計を改良したC55やC57という機関車が全国的に広まっていきました。

事故を起こした機関車は和田山から溝口まで行って乗客を乗せて折り返すので機関車を前後に付け替えてまた和田山に戻る経路でした。しかし溝口には転車台が無かったので、機関車の向きを変えることができませんでした。そこで溝口行きは炭水車が前、煙突が後ろの後向きで列車を牽引し、和田山へ行くときは煙突が前、炭水車が後ろの正しい向きで運転することになりました。そのために行きに生野峠を越えるときはバック運転で急な坂を登ることになりました。C54形機関車のようなテンダー機関車ではバック運転が苦手でした。バック運転をすると炭水車が邪魔で見通しが悪いので速度制限がかかります。前進に比べると運転しづらいくはなります。しかし危険な運転ではありませんでした。

この列車は円山川に沿う播但線の線路を和田山から少しずつ登っていきます。新井を過ぎると次の生野との間には生野北峠があります。ここが日本海と太平洋の分水嶺でここから北の円山川水系は日本海へ南側の市川水系は太平洋へと繋がる瀬戸内海へ注ぎます。この生野北峠の下を播但線は生野隧道で越えています。ここが鉄道にとっての生野峠となります。トンネルを抜けると生野駅に着きここからは市川に沿っての下りになります。

列車は断面の新井からの急勾配をバック運転で懸命に登っていました。このとき生野隧道では新井側から生野へ向けてトンネル内に風が吹いていたのでしょう。ゆっくりとしたバック運転で急勾配の生野隧道に入るとトンネル内の風が煙突より前方にあった運転台まで煙と熱気を運んできました。困難な状況で列車を止めないよう懸命な運転を行いますが、機関士・機関助士ともに窒息して失神してしまいます。

機関士によって機関車は坂を登り続けるようにレギュレータやリバーサを調整されていたので、乗員が失神したあともトンネル内を進み続けます。現代の鉄道車両であれば乗員が意識を失ったときに備えて、一定時間操作がなければ自動でブレーキがかかるようになっています。しかしこの時代には普及しておらずこの機関車も設置されていませんでした。やがてサミットを越えて列車はトンネルを抜けます。サミットを越えてからは列車は加速を続けます。止められる人はいません。乗員は意識を失い運転を行うことができないからです。

播但線は単線なので列車を上手くすれ違わせるために、当時は票券という円盤状の通行手形のようなものを使っていました。この通行手形をもった列車だけがある駅と次にすれ違える駅の間を通行できるのです。そのため途中の駅では通票の受け渡しを行います。停車しない列車の場合は走りながら受け渡しをするのです。新井から来た列車は生野で新井~生野の通票を渡し、代わりに生野~長谷の通票を受け取ることになっています。

この列車はサミットから勢いをつけて生野を通過します。当然ですが意識のない乗員は新井からの通票を渡すことも長谷までの通票を受け取ることもできないままに列車は暴走していきます。生野から次の長谷の間では線路は市川のV字谷に沿って下って行きます。川に沿って曲がりくねった線路を列車は暴走します。ところが生野町内を抜けて隣の神河町の渕集落には180度の大きなカーブがありました。暴走していた列車はこのカーブを曲がり切れず真名谷トンネルの手前で脱線転覆します。列車は転覆してトンネル手前の擁壁にぶつかりながらトンネル入口で停止しました。運転台は機関車の炭水車とボイラーに挟まれて圧し潰された状態でしたが、客車のほうは比較的原型をとどめていました。

事故の原因と対策について

原因は列車の速度よりわずかに速い追い風によって断面の狭い生野隧道内で乗務員が煤煙に巻かれ窒息したためです。同様の事故として1909年6月12日の奥羽本線赤岩信号場での列車脱線事故や1928年12月6日の北陸本線柳ヶ瀬トンネル内の窒息事故があります。こうした事故を防ぐために蒸気機関車での運転が過酷なトンネルでは入り口に追い風を防ぐための遮断幕が設置され、急勾配区間を走行する蒸気機関車では煙突に集煙装置が装備されて行きました。事故の発生した生野隧道に事故前後で遮断幕があったかどうかはわかりませんが、事故機のC545号機には着いていませんでした。

事故後の播但線では集煙装置の設置は行われませんでしたが、蒸気機関車にガスマスクが装備されました。これで煤煙に巻かれて乗員が意識を失うことはなくなります。加えて急勾配の補助機として当時最新のDF50形機関車が配備されます。しかし蒸気機関車を置き換えるまでには行かず、さらに13年後の蒸気機関車の引退まで乗務員の苦闘は続きました。

事故後

播但線ではC57形とC11形蒸気機関車が1972年まで残り、1972年の9月30日にC57形蒸気機関車の三重連運転を最後に蒸気機関車は全て引退しました。その後はDD51やDD54、DE10というディーゼル機関車が主力となり、JR化後には客車列車は全て気動車となります。阪神淡路大震災を機に加古川線と共に阪神間の迂回ルートとして注目を集め、加古川線と共に電化されます。しかし小断面の生野隧道などが電化を行うため架線を吊るにはトンネルが低すぎました。そこで電化区間は長谷の一つとなりの駅、神河町中心部にある寺前駅までとなりました。長谷以南にはトンネルが存在しないので都合が良かったのでしょう。ちなみにほぼ同時期に電化された加古川線はトンネルが無かったので全線通しで電化されています。

C54は事故以前から保守的な問題を抱えていたので福知山機関区に集められていました。福知山機関区でも是非とも使いたいという機関車では無かったので、代わりの機関車を持ってきてC54を引退させたかったようです。しかし機関車が全国的に不足していたため国鉄は代替機を用意できる状態ではありませんでした。そこで全17両中C54の状態の良い8両を整備し使っている最中でこの事故が発生しました。C54のせいで起こった事故では無かったので事故後も福知山で活躍を続けます。軽量さを活かして8620形の活躍する宮津線への投入も考えられましたが8620形と比べて繋がっている動輪の長さ(固定軸距)が長く、山陰本線・福知山線や播但線よりカーブの急な宮津線では使うことができませんでした。福知山で活躍した機関車のうちこの事故を含めて2両が廃車になったほかは6両すべてが浜田機関区に転属して活躍しました。その後電化が進んで他の地区から転属してきたC57で運用を賄えるようになると全てのC54は引退しました。廃車時期が早くもともと両数も少なかったことから保存されたものはありません。

参考にしたページ

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