日東航空つばめ号墜落事故(日東航空淡路島墜落事故)

事故・失敗と安全

昨日5/1、某航空事故検証番組と労働者の祭典を掛けた『#本日はメーデー』のタグでTLが賑わっていたんです。そこでふと思いました、5/1に起きた航空事故ってどういうのがあるんだろうかと。米軍機をソ連が撃墜した事件とか色々あったのですが、目に留まったのは国内で起きた1件の事故です。以前から気になっていた事故で、今回少し調べてみることにしました。

事故の概要

日東航空つばめ号墜落事故、別名日東航空淡路島墜落事故は、昭和38年(1963)5月1日、大阪空港から徳島へ向かっていた日東航空のDHC-3オッターの「つばめ号」が淡路島の諭鶴羽山中に墜落した事故です。

航空会社・機材の詳細

日東航空は昭和27年(1952)に航空団体法人日本観光飛行協会として設立され、昭和33年(1958)に日東航空と社名を変えました。本社が大阪にあり、事故当時は近畿日本鉄道が資本参加していました。事故以降のことになりますが、運輸省の指導により事故1年後の昭和39年(1964)に東京の富士航空・北海道の北日本航空と合併して日本国内航空となります。この指導はこの時期、航空事故が相次いだことが原因です。1963年には国内で3件、翌年には2件の事故が起こっています。その後日本国内航空は広島の東亜航空と合併し、東亜国内航空なったのち、日本エアシステムと名前を変え、2004年に日本航空の傘下になり、2006年に現在の日本航空株式会社に吸収されて、消滅しています。

機材はデ・ハビランド・カナダDHC-3オッターを使っていました。DHC-3オッターは最大で乗員2人乗客9人が搭乗できる単発STOLレシプロ機でした。ジェット機のようなジェットエンジンではなく、ピストンエンジンが機体の先頭に一つだけ付いている飛行機です。STOL機とは短距離で離着陸が可能な飛行機のことです。さらにDHC-3オッターはとても頑丈な機材でもあり、僻地や不整地壁の貨客輸送に活躍しました。この機材は日本国内ではオッターではなくアッターと呼ばれています。オッターでは「落ちる」つまり墜落をイメージさせるために縁起が悪く、公的な場面でも「アッター」と呼ばれていました。また事故機はフロートを装備することで水陸両用機でした。

日東航空はこうした小型水陸両用機を使用して大阪から、徳島・高知・別府・串本・名古屋などを結んでいました。大阪と名古屋以外は空港ではなく川面や海面に着陸していました。水陸両用機であれば、滑走路のない都市へもこうして就航ができたためです。事故の起きた路線も大阪では伊丹の大阪空港を利用し、徳島では現在の吉野川橋の上流側南詰にあった桟橋を利用していました。吉野川の吉野川橋の下流に着水・離水を行い吉野川橋の下をくぐって桟橋まで近づいていたようです。自力では桟橋に着岸できないため小舟に曳航されて着岸していたという話が残っています。ちなみに当時吉野川橋の下流には橋がありませんでした。現在の国道11号吉野川大橋が着工するのは昭和43年(1968)のことです。なお、現在の徳島空港にあたる松茂飛行場はあったものの、事故当時は自衛隊の飛行場であり、公共空港として使用されていなかったと推定されます。また当時の大阪~徳島の片道運賃は大人が¥2,300(現在価値で¥10,600くらい)、子供は¥1,400(¥6,500くらい)でした

事故当日の状況

青が事故の推定予定ルート、赤が事故現場付近

事故機は昭和33年(1958)に新造機として日東航空に納入されたもので、機体番号はJA3115、愛称は『つばめ号』です。就航当時日本で唯一のDHC-3オッターでした。事故の1か月まえのオーバーホールでは機材に問題はなかったようです。操縦士2人はそれぞれ飛行時間2000時間を超えるベテランでした。乗客は9名が搭乗していました。

当日の天候は大阪では雨が降っていましたが、到着地の徳島は比較的天気に恵まれていました。

大阪空港では視程2.5マイル(約4km)であり、有視界飛行による離陸が許されている3マイル(約4.8km)を下回っていました。また機長は運行管理者から徳島の天候が良いとの状況を聞き、有視界飛行はダメでも、特定の条件を満たせば可能な、特別有視界飛行なら飛行できるとの判断を下します。特別有視界飛行はいくつか制限が付きますが、基本は有視界飛行と変わりません。そして8:11に大阪空港を離陸しました。離陸時点では悪天候ではありましたが、十分に特別有視界飛行が可能な状況でした。

予定の飛行コースは、目標まで進み、目標を目視できたら、次の目標に針路を変えるというものでした。大阪空港を発つと、まず岸和田に向かいます。岸和田を視認すると次は和歌山と淡路島の間にある友ヶ島へ。友ヶ島を過ぎると、淡路島の南端にある孤島沼島(ぬしま)を目標にします。沼島からは徳島へ向かうというようなコースでした。

空港を発ち、この機は高度2000ft(約600m)まで上昇したのち、南に針路をとりまず、岸和田へ。8:24、岸和田で日東航空の大阪空港の営業所から、大阪空港で視程が1.5マイル(約2.4km)まで悪化したと連絡を受けます。岸和田視認後は友ヶ島へ針路を取ります。また8:39に機長は、松茂飛行場の地上視程が6マイル(約9.7km)で、天気は先ほどと変わらず良好であると知らせを受けます。

友ヶ島を確認後、雨雲が低くこれを避けるために高度を500ft(約150m)まで落とします。有視界飛行では雲の中に入ることが禁止されているためです。有視界飛行では目で見て飛行機の前方の障害物を把握します。このために視界が失われる状態で有視界飛行を続けてはいけません。また高度500ftというのは最低安全高度と呼ばれており、航空機が離着陸を除き、飛行することが許される最も低い高度です。航空機が飛行するときは、地表にあるものとの衝突を避けるために、地上の標高の一番高い地点や海面から500ftの距離を取る必要があります。

予定コースでは、友ヶ島付近で沼島上空を通過できる航路になるように、適切に進路を取ればほぼ直線で徳島まで行くことが可能です。そのため機長は、ここで沼島上空を通り、徳島へ直進で向かえるような針路を取ります。ですが、このまま進み続けると高度に問題がありました。現在高度は500ft(約150m)ですが、沼島は最高地点が約385ft(117m)あります。高度差は115ft(30m)あるので上空飛び越すのは可能そうですが、この高度で飛び越すのは先述の最低安全高度のルールで禁止されています。そのため、機長は沼島の標高約400ftに最低安全高度500ftを足した、高度900ft(約270m)で沼島上空を通過しようと決定します。

8:45、友ヶ島を通過中に機長は再三報告を受けます。今度は徳島の営業所からで、雲の高さが4000ft( 約1200m)で、地上視程が7マイル(約11.3km)でした。機長は考えます、鳴門海峡までに視界を失ったとしても、鳴門海峡以降は視界良好だから、900ftで飛行を続ければ、沼島上空を通過し徳島まで無事に飛行できる、と。

そして乗員はこの機体は高度500ft(約150m)から高度900ft(約270m)まで上昇させます。このとき沼島付近も雨で、雨雲が低く垂れこめていました。そのため、飛行機は雨雲の中に飛び込んで、徳島に向けて高度900ft(約270m)でフライトを続ける状態になります。鳴門海峡に来れば雲から抜けて視界が広がるはずでした。

そして雲の中を飛行し続け、淡路島の南岸の山の斜面に激突しました。

事故発生直後

8:56頃、つばめ号は兵庫県三原郡南淡町灘吉野の諭鶴羽山系にある通称重助山の標高約300mの斜面に衝突しました。衝突と同時に機体は四散し、100m程度に渡って部品が散乱しました。機体前方に着いていたエンジンなどの部品は調査不能なほど粉々になっていました。それから機体は炎上します。

機長と副操縦士は重傷を負ったものの操縦席左右のハッチから脱出して救助されました。乗客9名は火の周りが速かったために、逃げ出すことができず、全員が死亡しました。焼け爛れて身元の特定が困難だったようです。

事故の連絡を受け、管轄の洲本警察署は近くの中学校に現地対策本部を設営して対応に当たりました。

事故後、遺体は洲本で荼毘に付し、各遺族へ引き渡されました。日東航空は6日に大阪市北区の東本願寺で合同葬儀を行おうとしましたが、一部の遺族から反対がありました。乗客に外国人もいたためであると思います。

また、この事故は昭和27年(1952)のもく星号墜落事故、昭和33年(1958)の全日空下田沖墜落事故に続き、戦後3番目の旅客機事故となりました。

事故原因

事故の主因は有視界飛行方式で飛んでいるにも拘らず、雲の中に侵入したことです。今回は特別有視界飛行方式ですが、この場合でも視程は1500m以上なければ飛行してはいけません。視界が安全上十分確保されていないまま飛行を続けたために、山の斜面に気付いて回避することができませんでした。

さらに、飛行中に自分の位置を間違えたことです。淡路島から十分に距離を取れば友ヶ島から徳島まで直線で飛行しても、山の斜面にぶつかることはありません。淡路島に寄った針路を取ってしまい、自機と淡路島の位置関係を間違えたまま飛行を続けたことで、山の斜面にぶつかるコースを進んでしまいました。ですが、この原因も有視界飛行方式の規則が守られていれば、淡路島に接近しすぎていることから針路の間違いに気付き、コースを修正できたと考えられます。

事故後

機長は業務上過失致死傷と航空法違反で大阪高裁で有罪判決を受けます。最高裁に上告したものの、棄却され判決が確定します。最高裁が関わった航空事故としては初のものになりました。

事故同年、昭和38年(1963)6月に事故のあった大阪~徳島・高知線が不定期航空路から定期航空路として正式に認可を受けます。そして10月10日からは、同路線にレシプロ双発旅客機のコンベア240が就航し、吉野川の桟橋から松茂飛行場に発着が変更となりました。

日東航空は翌年、昭和39年(1964)4月15日に、先述の通り富士航空・北日本航空と合併して日本国内航空となりました。零細航空会社を合併して、経営基盤を強化し、航空産業の安全性を高めようとした運輸省の指導の結果です。

事故現場では、現在の南あわじ市灘吉野周辺に慰霊碑が建立されました。『つばめ号遭難慰霊碑』として、事故の概要と、犠牲となった9名の方の名前が刻まれて残っています。

補足

いつ吉野川の桟橋から松茂飛行場に、発着場所が変わったのかは、記事によって違い、一年ほど早い可能性があります。なので事故当時松茂飛行場にDHC-3オッターで発着していた可能性もありそうです。

それと今回はすべてソースがネットなので、怪しいところがあるのはご容赦ください。

参考にした記事

  • 「日東航空つばめ号墜落事故」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/日東航空つばめ号墜落事故>(参照2020-5-2).
  • 「日東航空」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/日東航空>(参照2020-5-2).
  • 「日本エアシステム」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/日本エアシステム>(参照2020-5-2).
  • 「デ・ハビランド・カナダ DHC-3」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/デ・ハビランド・カナダ_DHC-3>(参照2020-5-2).
  • 「コンベア240」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/コンベア240>(参照2020-5-2).
  • 「吉野川大橋」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野川大橋>(参照2020-5-2).
  • 「徳島飛行場」,<https://ja.wikipedia.org/wiki/徳島飛行場>(参照2020-5-2).
  • tt-museum(2011)「水陸両用機が活躍した地方エアライン」,<http://www.tt-museum.jp/growing_0170_nit1961.html>(参照2020-5-2).
  • 「第43回国会 参議院 運輸委員会 第18号 昭和38年5月7日」,<https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104313830X01819630507>(参照2020-5-2).
  • 「AviationSafetyNetwork」,<https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19630501-0>(参照2020-5-2).
  • があ子(2013)「【2】淡路島・最高峰の諭鶴羽山を越える」,<http://archive.md/20130501072131/http://gaako.la.coocan.jp/awaji/awaji02/awaji02.html>(参照2020-5-2).
  • とり(2014)「徳島飛行場跡地(水上機用)」,<https://airport1111.blog.ss-blog.jp/tokushima-airfield>(参照2020-5-2).
  • 「飛行機の飛行ルール有視界飛行(VFR)はご存知でしょうか」,<https://media.skytrek.co.jp/blog/vfr-introduction>(参照2020-5-2).
  • 日本航空広報部(2005)「最低安全高度(minimum safe (flight) altitude, minimum enroute altitude)」,<https://www.jal.com/ja/jiten/dict/p286.html#05>(参照2020-5-2).
  • 日本航空広報部(2005)「飛行方式 flight rules」,<https://www.jal.com/ja/jiten/dict/p311.html>(参照2022-2-18).
  • スカイアートジャパン株式会社(2020)「最低安全高度について」,<https://skyart-japan.tokyo/2020/10/11/2020-10-11/>(参照2020-5-2).
  • 藤本雅之(2007)「新居浜の航空路回顧」,<https://www.i-kahaku.jp/publications/bulletin/pdf/12/kagaku01.pdf>(参照2020-5-2).
  • カラスのガレージ(2019)「特別有視界飛行方式による飛行のやりかた」,<https://crows.tokyo/post-1351/#toc_id_5_1>(参照2020-5-2).
  • RJOS PHOTO GALLERY(2002)「最後の徳島-大阪線」,<http://rjosgallery.web.fc2.com/RJOS_LSTOSA.htm>(参照2022-2-17).
  • RJOS PHOTO GALLERY(2002)「徳島から伊丹へ 最後のYS-11」,<http://rjosgallery.web.fc2.com/RJOS_LSTYS.htm#徳島から伊丹へ最後のYS-11>(参照2022-2-17).
  • インターネット航空雑誌ヒコーキ雲(2021)「日本の民間水陸両用機研究」,<http://hikokikumo.net/His-Civ-Suiriku-index.htm>(参照2022-2-17).
  • akamomo(2018)「迷航空会社列伝「東急の空への夢」 第1話・第三の航空会社」,<https://www.nicovideo.jp/watch/sm34156309>(参照2022-2-17).
  • テツオタニコフ(2018)「【ゆっくり事故調査委員会】航空事故解説 全日空機雫石衝突事故」,<https://www.nicovideo.jp/watch/sm33440982>(参照2022-2-17).
  • 画像は国土地理院の地図を加工したものである。

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